シン・ゴジラ第2形態の話がしたい

 怪獣というものは時にその時代がもつトラウマとして銀幕上に、私たちの目の前に姿を現す。『シン・ゴジラ』におけるゴジラ津波原発をモチーフにしていることは誰の目にも明らかだろうし、ハリウッドでだって『クローバーフィールド』や『宇宙戦争』など9.11を連想させる怪獣映画が作られた。初代『ゴジラ』だってそうである。

 1954年に作られた『ゴジラ』第一作。その頭部の形状がキノコ雲であるだとか東京上陸時の進行ルートが東京大空襲におけるB-29のそれであるとか制作の背景に第五福竜丸事件があるだとかそんなことはわざわざここに書くまでもないだろう。最初のゴジラは間違いなく太平洋戦争や核兵器に対する恐怖そのものであった。

 1954年の日本人の目に最初の「ゴジラ」がどう映ったか?今を生きる私たちには正確には想像出来ないであろう。終戦から9年、映画館に現れた”それ”はやっとの思いで復興してきた東京の街をあの大空襲の夜へと引きずり戻していった。燃え盛る東京を後にするゴジラに「ちくしょう」と叫んでいた劇中人物、劇中で交わされる「原子マグロ」や「疎開」といった言葉、それらを当時の日本人がどのように受けとったのか。正確なところは私たちにはわからない。まず第一に私たちはあの時代を経験していないし、第二に54年の観客から見た「ゴジラ」はまさに初めて目にする異形の存在であったが我々からしたら見慣れた怪獣王ゴジラでしかないからだ。

 初上陸からの60年で我々はゴジラを見すぎ、慣れすぎた。子供騙しのちゃちな着ぐるみ、悪い怪獣を倒す正義の怪獣、そういったパブリックイメージが付きまとい、1作目の如く日常の破壊者、恐怖や畏怖の対象としてゴジラを描くことは極めて難しくなった。そんな中で初代『ゴジラ』の衝撃と面白さに少しでも近づこうとして生み出された発明がシン・ゴジラ第2形態だった。

 地を這いずり、体液を撒き散らす。意思疎通を拒む虚ろな瞳。果たして本当にゴジラと言ってしまって良いのかさえあやふやな”それ”は、しかしだからこそこれまでのどんなゴジラよりも初代ゴジラに近かった。その時代のトラウマの具現化としての誰も見たことのない異型の存在、そういう意味で第2形態は間違いなくゴジラだった。初代の続編という形で続いていたシリーズのお決まりを破り、現代日本に初めて”それまで誰も見たことのないゴジラ”が現れるというシチュエーションを描いた。第2形態のヴィジュアルショックで既存のゴジラ像を破壊する。シン・ゴジラの第2形態はそれまでシリーズが積み上げてきたゴジラという存在そのものに対するイメージとあまりにもかけ離れ、それゆえに間違いなく初代ゴジラと同質の存在であった。「シン・ゴジラ第2形態は初代『ゴジラ』を見た当時の日本人が想起した感情と限りなく近いものを現代の我々に体験させる初代『ゴジラエミュレータである。」というと言い過ぎであろうか。『シン・ゴジラ』にはゴジラというキャラクター像からすれば殆ど反則技みたいな要素もあったが、それでも、それゆえに間違いなくゴジラ映画であった。

 

 第2形態は今でこそ「蒲田くん」だなんて言ってきゃいきゃい言われているけども、公開初日に最速上映で目にした時の衝撃たるや頭をビール瓶で殴られたようにショッキングだった。その時の気持ちを自分なりに言語化しておきたくて、ひとつの区切りとしてこうやって書いてみた。今日からゴジラシリーズ初の劇場アニメ作品『GODZILLA 怪獣惑星』が公開だ。CGアニメという次なる形態へと進化したゴジラ映画が魅力的な新しいゴジラ像を見せてくれることを期待したい。